日出味噌醸造元TOP > 創業秘話
眼前に広がる海から昇る朝日を見て、彼はスッカリその土地が気に入ってしまいます。
「この地で味噌屋を始めよう!」
五郎が見たのも、こんな日の出だったのでし
ょうか・・・
彼が創業を決意してから数ヶ月、やっと見つけた理想の場所でした。
その男の名は河村五郎、そして彼が創業の地に選んだのが東京市芝区日ノ出町(現在の東京都港区海岸2丁目)です。
日ノ出橋のたもとにあるその土地は、明治後半から始まった東京港湾の埋め立て拡張事業で作られた新しい土地で、すぐ近くには味噌原料である大豆や米の集まる港があり、また町を縦横に横切る運河が港からの原料運搬に利用できる、味噌屋を始めるにはうってつけの場所でした。(現在も当社の裏には運河があります。)
当社周辺には今も運河が
広がって
います
日の丸とも結びつく日ノ出という町名も彼が気に入った点、彼はその町名にちなんで彼の新しい会社の名を「日出味噌醸造元」と名づけます。(ちなみに、「日出」の「の」が無いのは、「日の出」の商号が他業種に先行登録があった為だそうです。苦肉の策ではありましたが結果的にはユニークであり字面にも締まりが出て新会社に相応しいものとなりました。)
創業日は将来の大発展を願うという意味から、末広がりの八にあやかって大正八年八月八日、
日出味噌醸造元が産声をあげます。河村五郎若干33歳の年でした。
奈良県磯城郡大字多村、河村五郎は伝七の三男として、明治20年に生まれました。
その頃の河村家では、代々綿屋という屋号で家伝薬を売っていましたが、五郎の幼いころに父伝七が亡くなり、経営の柱を失った綿屋も程なくしてつぶれしまいます。
五郎 27歳 糧秣廠の研究者だった
頃の写真です。
その為、五郎は、当時すでに地方公務員となっていた、長兄禎夫によって育てられました。
もちろん家計は決して楽ではなく、物心ついた頃より、五郎は学費のかからない軍人になろうと考えていました。しかし、海軍兵学校を受験するも、心臓が悪いことが発覚、抱いていた軍人への夢も及ばずあっけなく体格検査ではねられてしまいます。
そうして軍人の道を絶たれた五郎が次に選んだのが、現在の大阪大学の前進である大阪高等学校醸造科への進学でした。苦学しながらもなんとか卒業し、当時の最先端の醸造技術を身に付けることとなります。
そして、明治44年に陸軍糧秣廠(りょうまつしょう※)製パン部に勤務します。
さて、糧秣廠での仕事は、専らパン酵母の研究。毎日が研究に明け暮れる生活でした。
しかし、程なくして、そんな研究漬けの日々に、一つの転機が訪れます。
当時、日本は満州に利権を持ち、南満州鉄道の経営にあたり軍隊を駐屯させていました。
その軍隊へ食糧を供給するというのが、糧秣廠の一つの役割で、味噌などの主要な食糧を内地から供給していました。
一方、満州は穀物の一種である高粱(コウリャン※)の一大生産地。
「コウリャンも米と同じデンプン質、米の代わりにコウリャンで糀を作り、
大豆と合わせれば味噌が出来るはずだ!」
五郎は、満州高粱(コウリャン)をつかって現地で味噌を作れれば、満州に駐屯する日本軍に対し安価かつ大量の味噌が供給でき、大きく国策に貢献できるはずだと考えたのです。
さっそく上司に具申し、研究の許可を取り付けます。
そうして苦労の末開発したのが「高粱味噌の製造法」でした。この研究は当時の陸軍大臣寺内正毅(後に初代朝鮮総督、第18代内閣総理大臣を歴任 1918年没))によって激賞され、五郎には、当時の金額で1000円(現在の価値にして400〜500万円に相当)が贈られています。このことからも当時の五郎の研究レベルの高さと、この研究の国への貢献度合いが伺い知れます。後にこの研究成果は糧秣廠の特許となります。
大正4年当時の五郎の発明は今でも特許庁
の記録に残されています。
また、高粱味噌の製造法の開発の過程で五郎は
「味噌速醸法(大正4年に五郎により特許取得)」という技術を併せて開発しています。そして、大正6年には、その発明を企業化しようと、軍の後押しで帝国醸造株式会社が設立される運びとなり、設立に際して五郎は技師長として招へいされ、官を辞することとなります。
なお、この「味噌速醸法」の特許は、それまで1年かかっていた味噌の醸造期間を数ヶ月に短縮するという画期的なものでしたが、「味噌技術の発展と、日本の食糧供給力の向上の為」にと、この特許はのちに五郎の意向で同業者に開放されることになります。その結果、この発明の中核技術である「熱仕込み」とよばれる新しい味噌の醸造技術が、特に東京に旧来からあった伝統的な江戸味噌の技術と融合され、東京独特の味噌である早造り仙台味噌、通称「早仙(ハヤセン)」が生まれるきっかけの技術となります。この早仙はその生産効率のよさと、手ごろな価格から、戦前の東京で急速に普及し、江戸甘味噌と並んで東京の中心的な味噌となってゆきます。
なお、この「早仙(ハヤセン)」の製造手法は、戦時中の食糧統制下においては「全味式(全国味噌組合方式)」へと発展し、配給味噌の基準製法となります。
こうして、若くして帝国醸造の技師長として招かれた河村五郎の技術者としての人生は、順風満帆であるかに見えました。しかし、それもつかの間、帝国醸造は小名木川に工場を竣工してまもなく失火する不幸に見舞われ、それが原因で瓦解してしまいます。
五郎は、一転、職を失ってしまうのです。
もちろん、それまでの功績もあり、五郎には様々な人・企業から声がかかったそうです。しかし、結局はこの出来事がきっかけとなって、自分の力を試して見たいという気持ちが日に日に高まり、自ら味噌屋を起業することを決意するのです。
こうして、冒頭の日出味噌の設立へと繋がっていくことになります。
※陸軍糧秣廠(リョウマツショウ):陸軍の糧秣(兵隊の食糧や軍馬の飼料)を調達、製造、 保管する機関で、本廠は東京深川に置かれ、支廠が札幌、大阪、広島に置かれていた。
※高粱(コウリャン):イネ科の一年草の植物・穀物。コウリャンは中国名で一般にはモロコシと称される。
さて、意気揚揚と創業はしたものの、古いのれんや伝統を重んじる味噌業界に新参者である日出味噌がそう簡単に割り込める訳はありませんでした。
結局は仕込んだものの売り先も無く、いたずらに熟成していく味噌を眺めては、ただため息をつくばかり。
そんな時期が続き、そろそろ資金も底をつき始めた頃でした。
大正12年9月1日、その日は休日、朝から強く振り続けた雨も午前11時頃にはすっかり晴れ上がり、まるで蒸風呂のような酷暑となりました。
そろそろ皆が昼食を取ろうとしていた午前11時45分、ゴーという地響きと共に突如として地面が左右上下に揺れだして止まらなくなりました。東京の最大振幅180mm、東京の南約9kmの海底を震源地とする大地震が発生しました、後にいう関東大震災です。
昼支度の時間帯という不幸がかさなり、あちこちから火の手が上がり、東京中が火の海と化しました。東京の焼失面積は市全面積の44%で、焼失戸数は全戸数の70%、死者5万8千人、行方不明1万人。罹災者は130万人で、全市人口の203万1千人余人の63%に及びました。
また、東京で営業していた味噌醸造所の70%は倒壊、焼失してしまいます。
周りの建物が次ぎつきと炎に包まれてゆく中、いよいよ火の手は当社にも迫りました。しかし、工場の寸前で突然風向きが変わり、日出味噌は奇跡的にも罹災を免れたのです。
そうして、幸いにも焼失を免れた日出味噌には、震災で食糧事情が逼迫した東京へ味噌を供給するという責任が重く、どっしりとのしかかってきたのです。
在庫していた、味噌はあっという間に売り切れ、とにかく味噌を供給することが責務と手近な救援物資集積所から、入札で売り出される原料を手当たり次第落札しては味噌を作り、出荷したのです。
もともと技術と品質には自信があったこともあり次第にお客様からも信頼を得ることとなり、これをきっかけに、新参者日出味噌も業界で認知されていくこととなります。
こんな時期も乗り越え,昭和に入ってからは、個人経営だった日出味噌を合資会社に改組し、資本金を49万5000円増資、また、工場を現在本社のある、港区海岸3-2(当時芝区芝浦)に移し、生産能力もそれまでの2倍以上となりました。
新しい工場には研究室を設置し、出麹の酵素力価測
昭和13年に完成した工場の様子。当時とし
ては最先端だったそうです。
定(甘酒試験)の追究を主として、工程管理を科学的に行えるようにしました。また、そのころ、どこも採用していなかった温醸法をいち早く取り入れているところも技術屋あがりの河村五郎らしさが伺えます。
そうして、当社が順調な歩みを続ける中、昭和12年12月3日未明、悲劇は突然やってきました。石炭ガラの捨て場から出火し、全焼こそ免れたものの、痛恨の大惨事となりました。
しかし、翌昭和13年後半には再建を成し遂げてしまいます。それも、新工場は3階建てで、3階、1階、地下に製麹室を設けるなど立体的な形式をとり、また、熟成蔵を第二工場として確保、月産600トンの生産能力を誇る工場で、当時としては斬新かつ大規模なものでした。災いを転じて福となす、転んでもタダでは起きない、創業者・河村五郎のバイタリティーを絵に描いたような事柄でありました。
こうして、日出味噌は創業の基盤を築いたのでした。
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