日出味噌醸造元TOP > みそピー > 「みそピー」物語
「日出さんの味噌で作ったのよ」 昭和35年秋の事、その頃千葉県を担当していた弊社営業マンの足助が、取引先で夕食に招かれた際に酒のつまみにと出されたのが、おかみさん手作りのピーナッツ味噌でした。これが私共が「ピーナッツ味噌」と初めての出会った瞬間です。
そもそも、このピーナツ味噌は、落花生の産地である千葉・茨城辺りの郷土料理で、商品にならない規格外の落花生を食べるために、落花生農家の人たちが、炒った落花生に味噌と砂糖をからめて作ったのが始まりと言われています。
当時、これら地域では知られていたものの、その他の地域ではほとんど知られておらず、足助もそのとき食べたのが初めてでした。
「これは、うまい」それがその時の足助の素直な感想でした。そのまま少量を会社に持ち帰り、当時の社長河村に食べさせました。河村の感想も足助同様「これは、うまい」でした。
その時の事を足助は思い返して次のように言っています。「普段社長はどんな物を食わせても必ず一言文句を言う、でも、あの時は一切ケチをつけなかったんだよなぁ、「うまい」と言っただけ、だから、これは絶対商品になると思った」
そして、これは売れるという強い思いに突き動かされて、足助は工場に製造を依頼しました。
しかし、当時は弊社では味噌以外の商品はいっさい作っていませんでしたし、ましてや油を使用するピーナツ味噌にたいしては、「油を味噌蔵に持ち込むのは好ましくない」と、生産部からは工場長を筆頭に随分と抵抗があったそうです。
しかし、そんなとき彼を後押ししたのが河村でした。最終的にはピーナッツ味噌の味が気に入っていた河村がそれらの反対を抑え、製造が始ったのです。
そして「みそピー」という名をつけ、販売を始めたのが昭和36年6月のこと。まずは半切り斗缶(10kg)に入れての販売から始まりました。
なお、「みそピー」という名前は、その頃全国味噌組合で企画されていた、みそのキャンペーン用キャラクター、「みそ平(みそッペー)」からインスピレーションを得て弊社社長の河村が考え出した名前で、後(昭和39年)に登録商標を取得しています。
しかし、発売はしたものの、それまで、「みそピー」を見た事も聞いた事もない関東のお客様がすぐに受け入れてくれるはずはありません。当然の様にはじめはほとんど売れなかったそうです。
最初の販売から程なくして、内側に印刷を施したビニール製の袋に入れて販売することを思いつきました。実は当時の佃煮類は油紙で包むか、業務用として半切り斗缶(10kg)で売るのが一般的でしたから、この包装形態はある意味画期的だったようです。
そして、この包装形態がきっかけとなって、ごく親しくしているお取引先が大々的にお取り扱いいただける事になったのです。しかし…。
出荷して程なく、大きな問題が発生しました。なんと、時間がたつと、みそピーの油が、袋の内側の印刷を溶かしてしまい、「みそピー」を袋から出すときに、一緒に印刷がはがれてでてきてしまうのです。あたかも「みそピー」そのものに印刷したかのように・・・。
もちろん、出荷した商品は全て返品として戻ってきました。せっかくのチャンスを目前にして思わぬ問題にぶつかり、山と積まれた返品の山を前にして一同、頭を抱え込んでしまいました。
大手広告代理店に依頼した袋。
当時は随分斬新だったそうです。しかし、運命の神様は「みそピー」を見捨てませんでした。丁度いいタイミングでポリセロという新素材の印刷袋が開発されたのです。これは、印刷面をポリエチレンとセロファンで挟んだもので、今度は印刷がはがれるような事はありません。この素材の出現によって先の問題が一気に解決されました。
こうして新しい袋をつかって販売を再開、始めの2〜3ヶ月は相変わらず売れませんでしたが、日が経つにつれ、徐々に市場に受け入れられ始め、ある時を境に一気に売れ始めたのです。そして、生産体制を整えながら、販売地域を広げ「みそピー」は関東中心に東日本そして全国に広まっていったのです。
この子も今や60才。
時が過ぎるのは
早いものです。
ちなみに、今からは考えられませんが、この頃の袋のデザインは、大手広告代理店に依頼したんだそうです。また、テレビコマーシャルもやったそうです。出演は社長の娘、「おいしい?」という問いかけに「うん、だいすき」と答えるだけのシンプルな物だったそうですが。
そして、それ以来60年長きにわたって、「みそピー」は弊社ロングセラー商品として多くの皆様に支持され、お召し上がり頂いています。商品形態こそ当初の袋から、主力はトレーに変わりましたが、今や関東地方では、ほとんどのスーパーが佃煮コーナーの売れ筋商品として、また、学校給食のメニューとして、ピーナツ味噌を扱うようになっています。
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